再生可能エネルギーを取り巻く環境の変化

(一身上の都合により?ブログタイトルを変えました。)

 ここまで、ややまとまりに欠くが、現在再生可能エネルギーと呼ばれるもののうち、自然エネルギーを電気エネルギーに変換する方法について述べてきた。
 正直に言って、ここまで書いてきた事のほとんどは、すでに言い古されたものである。

 1979年3月、アメリカにおいて発生した、スリーマイル島原子力発電所炉心溶融事故(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AB%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80%E4%BA%8B%E6%95%85)の影響で、反、脱原子力の機運が世界的に盛り上がり、1980年には、スウェーデンが、その時点で保有していた原子炉12基の2010年までの廃止を決定するなど、脱原発の動きが強まったこと受け、80年代に、「ソフト・エネルギー・パス」という言葉で表現された、自然エネルギー利用の考え方の範疇を出ない。

 その後も、1986年の、旧ソ連(現在のウクライナにある)の、チェルノブイリ原子力発電所の爆発事故(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%96%E3%82%A4%E3%83%AA%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80%E4%BA%8B%E6%95%85)が発生し、反原子力運動が世界的に盛り上がりを見せたものの、それ以降は、原子力発電所の安全運転の実績が積み上げられ、反原子力の運動も下火となっていった。

 スウェーデンの「脱原発」政策も、昨年、明確に見なおされ、原発の新規建設を含め、脱・脱原発に舵を切ったのは、象徴的出来事であろう。
http://jp.ibtimes.com/article/biznews/090206/28582.html

 確かに、チェルノブイリ事故以来、原発の安全性は、その運用方法を含めて徹底的に見なおされ、ヒューマンエラーの抑止などの新しい概念の安全対策なども十分に施されるようになり、上記2つの事故に匹敵するような大事故は、その後世界で発生していない。
 昨今の、地球温暖化に関する、二酸化炭素温暖化仮説に基づく、二酸化炭素排出への国際的削減の取り組みは、一方で発電時に二酸化炭素を出さない、原子力発電推進・拡大のインセンティブにもなっている。

 また、化石燃料が、あと100年は持たないのは確実であるが、ウラン燃料資源は、まだ数百年はもつものと仮定されており、その間に、核融合発電技術の確立がなされることを見込むのが、日本を含む多くの先進国のエネルギー政策である。

 この状況の中で、一時は脚光を浴びた自然エネルギー再生可能エネルギー)の開発は、自然エネルギーの固有の問題点(エネルギー密度の薄さ、不安定さ、コストの高さ)が、容易に解決されず、既存の技術である、水力、火力、原子力発電に、電気エネルギー供給の主役を握られたままになっている。

 しかし、最近になって、再生可能エネルギーを巡り、多少の環境の変化が生じてきた。

 まず、第一に、新興工業国(BRICs=ブラジル、ロシア、インド、中国)と、それに続く、発展途上国の急激な工業化及び生活レベルの向上に伴い、すぐに手に入る、化石燃料の消費がいちぢるしく増えてきていることである。
 この事実は、化石燃料の、可採年数がどんどん短くなって行くことと、その消費に伴う二酸化炭素の排出増の問題を生じさせ、原子力技術を保有する先進国と、そうではない新興工業国(旧ソ連のロシアは、独自の原子力技術を持っていたが<黒鉛減速型原子炉>、チェルノブイリ事故以降、この形式の炉は省みられなくなっており、ロシア自身も、新規建設の原発は、旧西側諸国設計の軽水炉を採用している。)との間で、二酸化炭素排出規制を巡り、激しい対立が続いている。

 また、原子炉は、その建設までに、膨大な資金と、長い期間を必要とするのに対して、化石燃料の利用はしごく簡単であり、新興工業国及びそれに続く工業化を進める諸国が、すぐに使えるエネルギー源として求めるのは、依然として石油・天然ガス・石炭なのである。

 また、もう一方で、原子力開発には、核兵器保有の問題が必ず付いて回る。
 先進国のエゴとは思うが、核保有5大国を初めとして、原子炉技術保有国は、自国以外の国が、独自の原子力技術を持ち、核兵器保有に走ることに、強い警戒感を持っている。

 ここに、先進国 Vs 新興工業国、そして、BRICsのうち、ロシア、中国、インドはすでに核兵器保有しており、さらなる核拡散に懸念を持ち、自国に続く工業化をしつつある国々の原子炉保有に神経質になっているという構図が生じているわけである。

 なお、ここで私は、二酸化炭素温暖化仮説は誤りである、という立場には立たない。
 温暖化は、ツバルなどの島国での、海水位上昇による国土の水没を見れば、その事実は疑いようの無いものであり、その原因が、二酸化炭素を含む、温暖化効果ガスによるものだという仮説は説得力を持つ。
 20世紀に入ってから、各地の氷河は後退を続けており、平均気温も、地球規模で観測が始まってから、上昇を続けている。
 温暖化仮説反対論者は、周期的におきている地球の寒冷化の時期に、今後は向かうといっているが、その根拠は何も無い。かえって、太陽黒点の活動が不活性化している昨年を見ても、すでに寒冷化に向かう条件下にありながら、依然、地球の平均気温が上昇を続けているのは、人為的な温暖化効果ガスの蓄積に原因があるといわざるを得ないものと、私は考える。

 話を戻すが、世界各国の工業化の進展と、生活水準の向上は、エネルギー多消費へと向かい、化石燃料の可採年数を縮める方向で進んでいる。
 原子力には核兵器開発の問題が付いてまわり、安易な原発の建設・輸出ができる情勢には無い。
 そして、化石燃料の消費は、二酸化炭素を初めとする、温暖化効果ガスの増加を招く。

 その結果、今、ようやく、化石燃料を代替し、かつ、核兵器開発とも無縁な、再生可能エネルギーに、光が当たるときが再び来たのである。

 おりしも、今までは、揚水式発電所の利用以外では不可能であった、電力の貯蔵が、蓄電池技術の進歩により可能になり、また、他のエネルギー源(エタノールや水素)への変換による貯蔵という道筋も見え始め、そのエタノールや水素を直接、乗り物の動力源とする方向へ、技術が進み始めた(電気自動車など)。

 この状況で、私がこれまで述べてきた、各種の再生可能エネルギーは、単にその発電量、質、密度にかかわらず、新型の蓄電池や燃料への変換、そしてスマートグリッドという思想により、小規模分散型電源もまた、採算可能なエネルギー源として見なおされることになりつつあるのである。

 また、今後も工業化や生活水準の向上が見込まれる、世界中の多くの国々で、核兵器の問題からも、二酸化炭素の問題からも自由に入手できるエネルギー源として、ハイブリッド化した再生可能エネルギーが期待を集めるだろう。

 さらに、日本においては、政権をとった民主党が、再生可能エネルギーの開発及びその技術の蓄積を、日本の新しい輸出品、または販売できるサービスとして位置づけ、新しい、日本の産業基盤として育成するという方針を打ち出している。

 私は、この政策の方向は正しいと考えている。
 化石燃料枯渇が、いつかは必ずやってくることを考えると、再生可能エネルギー利用も、今から手をつけておいても、損は無い。
 技術力で世界をリードしようと言うのは、資源の無い日本が、持続的に発展を続けるには、必要なことであろう。

 もちろん、「持続的発展」こそが至上かどうかは、国民の声にもよる。
 しかし、一部、経団連企業だけが儲けをむさぼるだけで、国民が貧困に陥りつつある今、少なくとも、OECD諸国並みの生活水準を維持するには、日本が、科学技術立国の道を歩むのは、当然のことと思う。
 ましてや、それが、環境技術、環境負荷の小さな発電技術、燃料技術であるとすれば、この地球を、子々孫々に残すのに、必要なことだと思うのである。

 明日は、少し趣を変えて、今までのエネルギー論を理解するのに必要な、エネルギーの単位系に関する記述をする予定である。